江津本町は、古くから江の川の舟運と日本海の海運の要所として栄え、寛文年間の上方航路が開かれると北前船の寄港地や天領米の積出港として川岸には4、50隻の帆船が林立し、浜田で入港を待ち合わせる船がある程の混雑ぶりであったと言われます。
この川岸から町中に向けて多くの廻船問屋の蔵屋敷が軒を並べ、その中心を山陰道が貫き東は大森銀山、西は浜田へと向っており、陸路、海路そして陰陽を結ぶ大動脈であった江の川の河の道などの交通接点として経済的な発展をし、当時は大森銀山に次ぐ石見第二の賑わいを見せる石州赤瓦の光輝く天領の町でした。 幕末の慶応2年には長州軍振武隊、隊長佐々木男也、参謀大村益次郎以下の一個大隊450名余りが、進駐し、明治2年までの3年間に渡り本陣が置かれました。陣屋新築にあたっては近隣15ケ村より壮丁を募り半年後に本陣を含む12棟の建築物よりなる陣営が完成しました。また村々より桜樹千株が献上され、住民による陣営の美化も図られました。現在でも長州軍の志士5名の墓石が当時の長州軍進駐を物語っています。
明治40年には、東宮殿下(後の大正天皇)山陰路御行啓に際し、本町への御駐泊の光栄を賜りました。御便殿の新築など、町をあげての歓迎でしたが東郷平八郎海軍大将の同行により、更なる歓迎ぶりであったとのことですが、これらの史実においても地域の繁栄と重要性をうかがい知ることができます。
江津本町は、郷田村、江津町、江津市との返遷する中で、行政、経済の中心として栄えてきましたが、昭和37年の市庁舎の移転に伴い、その中心も完全に移り変わりました。しかし、江戸期から昭和初期にかけての繁栄ぶりは、史実はもとより現在でも町に点在する商家や土蔵、多くの神社仏閣、さらに明治・大正時代の郵便局や役場など、数多くの歴史的建造物でもうかがい知る事ができる、静かなたたずまいの残されている町です。
先人達の偉業を知り、地域の文化や歴史を見直すとともに、埋もれた文化と歴史も再発見し、地域の素晴らしさを未来へと伝え「好きと言える本町」「住み続けたい本町」を育んで行くことが現代に生きる私たちの使命です。
歴史と地域の重要性を物語る「天領」と、さらに当時より赤瓦の輝く町であり、現在においても全国的な知名度の生産量を誇る石州瓦の主生産地である江津市の将来を瓦に託しながら「夢と瓦」の思いも込め、「甍」の文字を使った「天領江津本町甍街道」を地域のまちづくりにあたっての新たな夢街道名とし、この江津本町を保全し創造して行きたいと思います。
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県文化財課 小原氏の説明会
建築士会江津支部の研修会 H15/3
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緊急調査報告会の西和夫教授
H15/3/23
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花工房の方と作品展示
(旧江津郵便局)
H15/8
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西研究室メンバー
H15/8 特別公開された旧江津郵便局で
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| 三江線 江津駅〜本町駅区間 |
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きらく食堂(旧矢上銀行江津支店)
向って左側の建物
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本町川沿いの鼻ぐり石
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山辺神社
鳥居(1754)や手水鉢(1842)に寄進の刻印があり。横田家や藤田家など廻船業者の海上安全祈願の歴史あり。
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登り窯跡
(本町旧有田窯:はんどを焼いていた窯跡)
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土床坂(つっとこざか)は旧山陰道
坂の頂上は旧浜田藩との境界柱がある
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旧江津町役場庁舎
大正15年建築、アールデコ様式。コンクリートと木造の混構造で上下げ窓。活動の拠点として活用検討中。
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城構から本町をながめる。 |
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藤田家
廻船業を営み後に銑鉄も扱うようになった。1853年の建築で当時の特徴をよく残している。横田家同様煙出しや貴人用の玄関がある。
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横田家
廻船業で財をなし飢饉や開墾に尽力した歴史がある。煙出しや貴人用玄関があり棟瓦が一段と高く積まれている。
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| 旧江津郵便局 遠景 |
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旧江津郵便局 ファサード |
| 明治10〜20年代に建てられた擬洋風。郵便局として現存するのは全国的に珍しい。色ガラスやバルコニー、開き窓、階段など当時のハイカラをそのまま残す。早急な調査改修・保存修理が必要。
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| 旧江津郵便局階段踏板のデザイン |
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